11月2日に京都コンサートホール 大ホールにて、「オムロン パイプオルガン コンサートシリーズ Vol.74 オルガニスト・エトワール”中田恵子”」を開催します。
公演に先立ち、オルガニストの中田恵子さんにインタビューを実施しました。前編では、オルガンとの出会いからご留学生活について、後編では現在のご活動から今回のプログラムについてお話しいただいております。
ぜひ最後までご覧ください!
▶後編はコチラ
ーー本日はお忙しいところ、インタビューのお時間をいただきありがとうございます。中田さんは昔からバッハがお好きだったとお聞きしました。なぜバッハに魅了されましたか?
何故でしょう。小さい頃からバッハに惹かれていましたね。本能的なもので、あまり理由を考えたことはないのですが、姉もピアノを習っていて、やはりバッハが好きで練習しているのをよく聴いていたので、私も自然と好きになったのかもしれません。また、その当時習っていたピアノの先生もバッハを得意とされていました。各声部が独立しているバッハの曲に苦手意識を持つ子は多いかもしれないですが、先生のおかげもあってか、私はそこが面白いと感じていました。それぞれが独立しているのに、重なると必然のように芸術的で、子供ながらにすごいな、と思っていました(笑)。あとはテーマの美しさ、リズミカルな部分にも惹かれていました。
ーー小さい頃は、電子キーボードの音を「パイプオルガン」に設定して、バッハを弾いて楽しんでいらっしゃったそうですね。ピアノで弾くバッハとは違いましたか?
電子キーボードで音色を「パイプオルガン」や「フルート」の音に設定してバッハの《インベンション》などを弾いて遊んでいました。小学生の頃の話で、当時はもちろん歴史的な背景は知らなかったのですが、なんとなく「バッハをピアノではない音で弾いてみたい」と思っていました。実際、電子キーボードで、それらの音色を選んで弾いてみると、音が減衰せず持続するので、各声部がより立体的に聞こえるのが楽しかったんです。またバッハのリズミックな部分も好きで、それらの音色で音を短めに歯切れよく弾くと、より音の形が見えるような気がして、その感覚が心地よかったんだと思います。
ーー中学・高校時代は、パイプオルガンではなくピアノを習っていらっしゃったのですね。
はい、本物のパイプオルガンを生で聴いたことも見たこともその時はなかったんです。私は茨城県つくば市で生まれたのですが、研究学園都市だったこともあってか、教会文化には触れる機会がなく育ちました。パイプオルガンがあるコンサートホールも近くになかったので、オルガンを聴くという機会がありませんでした。ピアノも好きでしたが、今振り返ると、人生をかけるほどの熱い想いは無かったかな、と思います。
ーーパイプオルガンとの出会いは、大学ですか?
はい。ピアノで音楽の道に進もうかギリギリまで悩みましたが、結局、それはやめて東京女子大学に入学しました。東京女子大学はミッション系の大学だったので、正門のすぐ近くにチャペルがありまして、前を通るとオルガンの音がいつも聴こえてきました。入学当初、その音に吸い寄せられていって、そこで初めてパイプオルガンの音色を体験しました。天井から降り注ぐような音色を聴き「これは私が昔、バッハを弾きたいと思っていた楽器ではないか!??」と衝撃を受けました。それで「この楽器を弾きたい!!」と。
子供の頃からピアノを続けてきて、それをやめて始まった大学生活だったのですが、長い間自分の生活にあった音楽がなくなって、自分の体の一部を失ったかのような感覚がありました。女子大生活はもちろん楽しかったのですが、オルガンに強烈に魅了されたのをきっかけに、その失って余ってしまっていたエネルギーでまた演奏したい想いが沸きあがり、オルガンを習い始めることにしました。東京藝術大学受験に向けて、本格的に始めたのは東京女子大学を卒業してからです。周りからは「音楽で食べていくのは大変だよ」と止められかなり悩みましたが、覚悟して音楽の道へ進むことを決めました。
ーー本当に大きなご決断でしたね。東京藝術大学の生活はいかがでしたか?
学生同士が切磋琢磨しあう関係でもあるので、一般大学とは全く違う雰囲気に感じました。私のように寄り道なくずっと音楽をやっていた現役の仲間達に気後れすることもありましたが、今では全て良い思い出です。素晴らしい先生方にも恵まれ、貴重な時間を過ごすことができました。
ーー東京藝術大学大学院修了後は、パリに留学されましたよね。バッハといえばドイツですが、なぜパリを選ばれたのでしょうか?
留学するならドイツと考えていたのですが、誰に師事したら良いか悩んでいた時に、たまたまストラスブール(フランス)で教えていらっしゃったクリストフ・マントゥ先生が、新潟市民芸術文化会館 りゅーとぴあでのマスタークラスのために来日されました。マスタークラスの課題曲はバッハ作品でした。ドイツとの国境に近いストラスブールなら、ドイツとフランス両方の文化を持っていますし、バッハを学ぶのにも悪くないかもと思い、新潟でのマスタークラスに参加しました。その時の先生のバッハ演奏もマスタークラスも、お人柄も素晴らしく、「ああ、この先生に師事してストラスブールで勉強したいな」と思いました。しかし留学しようと決めた矢先、先生の勤め先がパリに移ることになったのです。ドイツとの国境にあるストラスブールならと思い留学を決めたのに、フランスの中心地パリ・・・悩んだのですが、先生方の後押しもあり、結局パリへの留学を決意しました。当時、私のイメージするパリは、治安が悪く怖いところ、と言う感じで・・・。「芸術の都パリに行けるのをそんなに嫌がっている人、珍しい」と周囲からは言われていました(笑)。しかし、住んでみたらいつの間にかパリが大好きに!またパリの空気に触れたことが、フランス音楽に対しての感覚的な理解に繋がったりと、結果としてはパリに留学をして本当に良かったと感じています。思い返すと、人生の節目節目で出会いや運に恵まれていますね。
ーーパリでの留学生活はいかがでしたか?
すごく楽しかったです。藝大時代は、既に大学も一つ出ていたし、経済的なことを考えて「働かなくては」と思い、合唱伴奏や教える仕事を学生生活の中でしていて、正直両立が難しく、時間にも心にも余裕なく過ごしていました。しかし留学して、幸運にもオルガンの勉強にじっくり向き合う時間ができました。またフランスに来て初めて分かる感覚、というのが沢山ありました。友達や先生との対話、暮らしから学ぶことも多かったし、オルガン作品について言えば、例えば私は日本ではメシアンの作品についてピンときていなかったのですが、メシアンがオルガニストをしていたサント=トリニテ教会で、実際にその豊かな残響に溶けていくようなオルガンの音を聴いたり、また弾いたりすることで、それまで気がつけなかったメシアン作品のハーモニーの美しさにはっとすることがありました。「あ、こういうことだったのか」と。自分の価値観や感覚が広がっていく宝物のような毎日でしたね。
ーー留学中、2013年に第11回アンドレ・マルシャル国際オルガンコンクールを受けられ、見事優勝を果たされました。また、優れた現代曲解釈として、Giuseppe Englert賞も受賞されたのですよね。
フランスのビアリッツで開催されている国際コンクールで、アンドレ・マルシャル・アカデミーが主催しています。ファイナルのプログラムには、一曲、現代曲を入れることになっており、フランスで活躍されているベルギー出身のメルニエ 氏の曲を弾きました。フランスでは、オルガニスト兼作曲家が現代でも活躍されていたり、現代曲がより身近に感じられました。日本では現代曲を弾く機会はほとんどなかったのですが、今もオルガン曲が生まれ続ける環境の中で弾いてみると、現代曲の見え方も変わりましたね。これからもどんどん新しい作曲家の作品に取り組みたいと思っています。
ーーご留学中、印象に残っているオルガンはありますか?
フランスですと、例えばパリのサン=シュルピュス教会のオルガンなど、フランクも愛したカヴァイエ=コル製のオルガンが至る所に残っており、そのシンフォニックな響きは本当に魅力的でしたね。石造りの大聖堂で降り注ぐ音に包み込まれる感覚は忘れられません。ステンドグラスが光に反射して映り変わる美しい色彩の様に、芳醇な響きが移り変わるんです。フランスの作品を演奏する時には、そこで得たインスピレーションを日本でも活かしたいと思っています。パリ以外ではマスタークラスに参加したロワール地方、ブロワのカテドラルにある、同じくロマン派に適したメルクラン製のオルガンも、その美しい響きが印象に残っています。
バロック時代の楽器であれば、鈴木雅明先生のCD録音のアシスタント のために訪れたオランダのフローニンゲンのマティーニ教会のオルガンが素晴らしかったです。ヨーロッパは陸続きなので、電車移動で他国の楽器にもアクセスできるのが良いですよね。
ーー大変貴重な留学生活だったのですね。後編では、ご帰国後の活動やバッハ作品のCD、そして今回のコンサートについて、お話をお伺いします。お楽しみに!
♪公演情報 公演カレンダー | 京都コンサートホール (kyotoconcerthall.org)