【京響スーパーコンサート特別連載③】広上淳一氏 特別インタビュー

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インタビュー

2019年11月23日(土・祝)に開催する「京響スーパーコンサート」では、広上淳一氏指揮の京都市交響楽団が世界トップクラスの合唱団「スウェーデン放送合唱団」と共演し、オール・モーツァルト・プログラムを披露します。

本ブログでは、インタビューなどを通して公演の魅力をお伝えする特別連載を行っております。連載の第3回は、本公演で指揮を務める、京響常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一氏にお話を伺いました。スウェーデン放送合唱団やモーツァルトについて色々と語っていただきました。


共演するスウェーデン放送合唱団について


――本日はお忙しい中、インタビューをお引き受けいただきありがとうございます。昨年11月に行われた記者会見で、スウェーデン放送合唱団を聴いたとおっしゃっていました。その時のことを含めて、同団の印象を教えてください。

広上氏:スウェーデンのノールショピング交響楽団の首席指揮者(1991~95年)をやっていた時、アムステルダムに住んでいて、ストックホルムへ仕事に行った時、聞いたことがあります。

スウェーデン放送合唱団はとても有名な合唱団で、亡くなったクラウディオ・アバド先生がベルリン・フィルの常任指揮者でいらっしゃった時、必ず彼らを使って合唱曲を録音したり演奏会をしたりしていました。もともとはスウェーデン放送局のオーケストラ(スウェーデン放送交響楽団)と一緒に編成されている合唱団でしたが、1990年代から2000年の初めにかけて、世界的な名声を確立するところまで有名になりました。

ペーター・ダイクストラ氏(※2007年~2017年スウェーデン放送合唱団の常任指揮者を務めた世界的合唱指揮者)の前の常任指揮者、エリック・エリクソン氏(”合唱の神様”と称され、スウェーデン放送合唱団の常任指揮者を長く務めたスウェーデン出身の大指揮者)が彼らを高いレベルにまで育ててダイクストラ氏につなげて、合唱団の自力をあげるためにものすごく貢献したと聞いています。アバド先生がぞっこんになったように、これまで世界中で成功してきました。

私がストックホルムで聴いた時は、スウェーデン放送交響楽団と一緒で、たしかヴェルディのレクイエムを演奏していたと記憶しています。とても上手な合唱団で、独特で透明な性質の声を持っていました。


公演プログラムやモーツァルトについて


――今回は「オール・モーツァルト・プログラム」です。広上さんは、モーツァルトが大変お好きだと伺いましたが、どのようなところに惹かれますか?

広上氏:モーツァルトのすごさは、偉大だという意味で共通の認識がありますよね。ベートーヴェンの作品も偉大なのですが、厳しいんですよね。いわゆる古典派からロマン派の最後の中で、ロマンティストな人でしたから、いろんな意味で楽譜に書かれた音符の中に全てエネルギーを注ぎ込んでいます。ピアノだろうとオーケストラだろうと指揮であろうと、彼の作品を演奏しようとする時は、エネルギーを吸い取られるようなパワーがあります。なんてことない譜面をちょっとでも気を抜いて演奏すると本当につまらない演奏になってしまうのがベートーヴェン。それくらい気を抜いたり、リラックスすることを許してくれないんです。だから恋人としては嫌なタイプですね。

――(一同笑)

広上氏:それくらい彼は大真面目というかロマンティストだったと思います。シンフォニーに限らず彼の作品すべてに言えることで、“美しい”というよりは、人間愛に満ちた悲しさや苦しさ、優しさなど、いろんな喜怒哀楽が全部そこに含まれている、というイメージを持っていますから、時々逃げ出したくなります。

モーツァルトはロマン派で例えると、R.シュトラウスに近くて、ベートーヴェンはマーラーに近い。自分をいじめていく中でエネルギーを発散しながら相手に表現していく、という魅力がベートーヴェンの作品にあると思うんです。一方、モーツァルトはもっと楽で、例えが正しいかわからないですけど、全身麻酔みたいな感じです。はーっとさせてくれる。だけどその中には、ものすごく精緻で精巧で高貴なものが流れていて、時々頭が真っ白になっても許してくれるように作品が導いてくれます。まさに、天才が故に人間愛に満ちている、と言いましょうか。人間の弱さに対しても寛大なんですよ。

ベートーヴェンは、自分が弱い質でしたから、自分も含めて人間に対して寛大ではないんですよね。どちらかというと要求をしていく。それに対して彼には成し得た能力があって、耳の疾患にしても父親の虐待にしてもそういうものを乗り越えていくだけのエネルギーと能力があったわけですけれども、みんながみんな、それをできるわけではないじゃないですか。

ですけど、モーツァルトっていう人が書いた作品の中には、そういう怒りとか悲しみとかフラストレーションを増殖させないで癒してくれるようなものがあります。モーツァルトの曲を聞くと、病院でも患者さんにとっていい、っていうのはそういうところ。その流れている音波と構造は多分がシンプルなんだけど、複雑なんですよね。シンプルに聞こえるんだけど実は精緻な計算の中に組み込まれたシンプルさなので、おそらく気が付かないうちに気持ちよくなって、まさに全身麻酔のよう、というのがモーツァルトの魅力だと思います。

――聞いている感じだとシンプルだけど、演奏する方はかなり気を遣わないといけない、ということでしょうか?

広上氏:いえ、聞いているとシンプルに聞こえるようですけど、実はそうではないということです。でもそれは、彼がすごく簡単なように見せてくれているだけで、すごくシンプルである裏側には、実はものすごい人間の人体と同じような細かな計算と優しさがある、というのがモーツァルト。ベートーヴェンの方が、もちろん精緻で考え抜かれているのですけども、そこに要求が入る。モーツァルトやバッハは要求はしません。こうしようとか、これが絶対だとか、“俺が正義”だと言わないんです。

広上氏:「正義」っていうのは自分が思い込んでいる誤解だと思います。相手にだって「正義」があって、そこで意見が違うと衝突する。私の方が「正義」だと。でもそれは誤解です。どちらも正義でどちらも間違っているかもしれないんです。それを絶対的な「正義」だと言ったのがベートーヴェンで、音楽家としては時々逃げ出したくなります。

――ちなみに広上さんは、モーツァルトとベートーヴェン、どちらのタイプですか?

広上氏:モーツァルト(笑)。私たち演奏家は役者なので、ベートーヴェンの作品をやるときは、ベートーヴェンが乗り移ったように演奏しないといけない、そういう顔でアクションをしないといけないのです。僕自身は立派な人じゃないですし。

ベートーヴェンは、サヴァン症候群ではないかと思うんです。これだけのことはできる、っていうある種の特殊能力ですから、ある部分に欠けていた部分もあったでしょう。例えば彼の晩年の家の中に行くと、床に排泄物が落ちたままだったりして、それを女中さんに毎日掃除させて、それができなければやめさせて、1週間に3人くらい女中さんを変えていたということが日記に残っています。娼婦のところへ毎日行って、「今日も女の人を狩ってしまった、なんてことだ」と自分自身を痛めつけたという日記もある。とっても人間的ですけれども、ある意味では激しい人だと思います。ピアノも上手かったですしね。

モーツァルトの場合は、ベートーヴェンと異なり、貴婦人にモテたんです。女性がどことなく「かわいいわね」って言っちゃうようなチャーミングさがありました。2人は、時代も40,50年違います。貴族社会が壊れ始める真ん中くらいの時代がモーツァルトで、ベートーヴェンの場合はフランス革命の前後ですから。

――京響と過去に共演したモーツァルトの中で、印象に残っている曲や演奏会があれば教えてください。

広上氏:ずいぶん前に交響曲「リンツ」をやりました。モーツァルトの「レクイエム」はたぶん僕と京響でやるのは初めてではないでしょうか。なので、ちょっと緊張しています。

この曲はモーツァルトにとって最後の作品です。これまで、いかにもそう言われてきましたけど、この作品を書いた時、本人は死ぬつもりじゃなかったんですよ。生の豚肉をあまり焼かずに食べて、ばい菌が入って亡くなったらしいですよね。どこかの貴族が、自分の書いた曲としてみんなに宣伝したいからということで、お金渡すからゴーストライターとして作曲してくれというお願いだったようです。たまたまそれが絶筆になってしまっただけ。それがいかにも「モーツァルトの神秘」、「モーツァルトの謎」のように独り歩きしているわけです。しかも彼の墓に関して言えば、共同墓地のどこに入れられているかわからないんですよね。不思議といえば不思議です。

――レクイエムは他の曲と比べて使っている楽器が違いますよね。

広上氏:バセットホルンなどですね。彼は、初めて「神様の楽器」と言われていたトロンボーンをこの曲の中で使いました。ちなみにトランペットは天使の楽器、ホルンは俗人の楽器、といわれています。

 

――今回京響と「レクイエム」を演奏するは初めてということですが、広上さん自身は何度か演奏されているのでしょうか。

広上氏:今まであまりやっていなくて、おそらく3回目くらいです。この曲は聞くのは好きで、素晴らしい作品ですけど、演奏するのは怖い。
怖いというか、恐れ多い感じがします。絶筆になって、可もなく不可もなくという弟子ジュスマイヤーが完成させましたが、師匠の作品をあまり壊さないように気を付けているのがよく分かります。一応モーツァルトのスケッチは残っているらしく、オーケストレーションした研究家もいます。

いずれにしても「ラクリモザ(涙の日)」の途中で絶筆していますから、そういう意味で畏怖も感じますし、巡り合わせは感じますが、あまりそういうところに焦点を合わせないで演奏したいと思います。集大成の素晴らしい作品です。彼はそのつもりで書いてなくて、これからいっぱいシンフォニーをたくさん書きたいと言っていたそうです。41番までしか残ってないけど、60番くらいまで書きたい気持ちがあったそうですから。モーツァルトが長生きしていたら、ベートーヴェンからの影響も受けた作品が出来ていたかもしれませんよね。

――レクイエムとのカップリングの曲として、レクイエムにつなげるために、「ト短調」の交響曲2曲(第25番あるいは第40番)を京都コンサートホールからご提案させていただきましたが、第25番を選ばれた理由を教えてください。

広上氏:第25番は「アマデウス」の最初のシーンで使われていますよね。第40番にすると重くなってしまって、かなりエネルギーを取られてしまい、メインの前にお腹いっぱいになってしまうから第25番にしました。

歌劇「皇帝ティートの慈悲」は、彼のオペラ中でもシリアスな悲劇です。普段、「フィガロの結婚」や「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」など、モーツァルトのオペラは明るいイメージがあるかもしれませんが、悲劇もたくさん書いています。普段はあまり取り上げないのですが、今回は割と珍しい曲を取り上げてみました。

――「皇帝ティートの慈悲」は、レクイエムと同じ年に書かれたオペラですよね。

広上氏そうそう、死ぬ間際に書かれた最後のオペラですよね。今回の選曲はなかなかいいプログラムだと思っています。


みなさまへのメッセージ


――最後に、コンサートを楽しみにされているお客様へ、メッセージをお願いします。

広上氏満席になってほしいです。一番嬉しいのは、放っておいても常に市民の生活の一部として、一か月に一回の定期演奏会が満席になること。私たちは市民の皆さまに応援していただき、活動しています。だから、私たちは市民の皆さまに音楽で還元する存在にならないといけません。皆さまが一年に一回京響のコンサートに行ってみようと思うだけでも全てのコンサートが満席になると思います。

口コミでいいのですが、「知らない曲でも良い演奏を常に聴かせてくれる場所ですよ」という宣伝をしてもらえると嬉しいですね。有名な曲をやると人が来るというのはどこも同じですけど、聞いたことのない曲を「知らない」と思わないで、「なんか知らないけど面白いらしい」って言ってくださると、市民の生活の中に少しでもオーケストラが染み込んでいきます。それが正のスパイラルに入れば、放っておいても2,3年先までコンサートが全て売り切れになると思います。そんな状態になってほしい、というのが私の夢です。

(2019年6月事業企画課インタビュー@京都コンサートホール大ホール楽屋にて)


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第1回「スウェーデン放送合唱団の魅力~人間の声の可能性は無限大~」
第2回「スウェーデン放送合唱団 前音楽監督ダイクストラ氏に聞く」