【ストラヴィンスキー没後50年記念】音楽学者 岡田暁生インタビュー<前編>

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京都コンサートホール

京都コンサートホールでは、ストラヴィンスキーの没後50年に際し、彼が残した傑作のひとつである《兵士の物語》(10/16)を上演します。また、関連講座として「ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー」も開催します。
レクチャーに先がけ、講師をしていただく京都大学人文学研究所教授の音楽学者 岡田暁生氏にインタビューを実施しました。
ぜひ最後までご覧ください!(聞き手:高野 裕子 京都コンサートホール プロデューサー)

―――この度は、インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。まずは、今年没後50年を迎える「ストラヴィンスキー」という作曲家について教えていただけますか。

ストラヴィンスキーは、美術の分野で言えばピカソに匹敵する人だと思っています。音楽史において20世紀を決定的に開いた人ですね。一般的に、ストラヴィンスキーあるいはシェーンベルクのふたりが20世紀音楽の扉を開いたと言われていますが、私の目から見ると、シェーンベルクははるかに19世紀、ロマン派寄りです。
間違いなく、ストラヴィンスキーは20世紀最大の作曲家ですね。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)

―――「20世紀最大の作曲家」と考えられる所以を教えてください。

ストラヴィンスキーは、音楽の「スタンダード」を変えてしまった作曲家です。
まず、ストラヴィンスキーは、19世紀において三流ジャンルであったバレエをモダン・ダンスにしました。それまでのクラシック・バレエと決定的に縁を切った20世紀的モダン・ダンスは、ストラヴィンスキーの精神から生まれています。彼は「リズムの解放」を行いました。それまでの西洋音楽は「音の高さ」を重要とする音楽であり続けてきましたから、「リズム」の要素は弱いものでした。それに対して20世紀の音楽というのは、クラシックに限らず、ジャズやロックも含めて、「音の高さ」の音楽ではなくなり、リズムの精神が求められました。つまり、20世紀はリズムが解放された世紀。ストラヴィンスキーはその先駆者だったのです。
さらに、ストラヴィンスキーは「新古典主義」という点でも先鞭をつけた人物でありました。彼は三大バレエ(火の鳥[1910]・ペトルーシュカ[1911]・春の祭典[1913])で新しい世界を決定的に開いたのですが、第一次大戦後、古典派時代への回帰を見せたいわゆる「新古典主義」へと作風をスライドしました。それはなぜか?ストラヴィンスキーは「音楽の歴史はもう終わった」と感じていたからです。つまり、「ポストモダン」の発想を持っていたということなのです。1920年代の段階で、ストラヴィンスキーはポストモダンの感性を先取りしていた。ストラヴィンスキーは過去の色々な作品をカタログのように使ってコラージュ的なことを行い、なんとか新しいことができないかと試みていますが、これは「音楽語法の発展はもう余地がない」という、ある意味では現代的ニヒリズムをはるか遠く先取りしていたとも言えます。
「リズムの解放」と「ポストモダン的感性」。ストラヴィンスキーは音楽の歴史の発展というものを、根本的に否定した人物なのです。

アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)

―――初期のストラヴィンスキーは、シェーンベルクが考案した十二音技法を避けていましたが、晩年になって取り入れるようになりました。なぜでしょうか?

「新古典主義」の一種ですね。色々なスタイルが掲載されているカタログを使って、パッチワークやコラージュのようなことをやったのです。材料さえあればなんでも良い。ストラヴィンスキーにとっては、シェーンベルクだって材料のひとつ。ちょっと乱暴な言い方をすれば、“ギャグる”材料のひとつ。つまり、非常に高度なパロディです。当時ストラヴィンスキーは、もう「パロディとしてしか芸術は存在しえない」、「音楽の発展はもう終わっている」と思っていたのです。

―――ストラヴィンスキーは、音楽の未来を見抜いていたということですね。

そう、見抜いていた。こうなったら、今までみんなが知っている、過去の色んなスタイルのパッチワークをやるしかないと思ったのです。現代の音楽家たちも同じようなことをやっていますが、発想自体は何も新しいことはない。だって、20世紀初頭にはストラヴィンスキーがすでにやっていたのですから。

―――ストラヴィンスキーの同時代人で、同じような手法を試みた作曲家はいますか?

たくさんいましたが、ストラヴィンスキーのようなラディカルさはなかった。「歴史はこれ以上、先に進まない」という、ある種の絶望感がその背景にあったかどうか、です。

―――ストラヴィンスキーのそういったキャラクターは、当時の時代背景と大きく結びついていますよね。

そう、絶対に忘れてはいけないのは、彼が亡命者であったということ、つまり生まれ育った国から切り離されていたということですね。今回、京都コンサートホールが上演する《兵士の物語》にも通じる話ですが。
シェーンベルクの場合、ウィーンもしくはウィーン古典派に深く根を下ろしているという意識があったので、先祖から受け継いだものをさらに発展させなければならないという義務感がありました。
しかし一方、ストラヴィンスキーの場合は、故郷から放逐されてしまって「どこにも所属していない人」です。《兵士の物語》を創作した1917年にロシア革命が起き、印税を得ることができた三大バレエのスコアはすべて新しいソ連政府に没収されたので、経済的にも非常に困窮していました。《兵士の物語》のストーリーである「戦時休暇で里に帰るけど、里はどこにもない」という内容は、実はストラヴィンスキー自身の話なのです。どこにも帰る場所がない。

―――なるほど、ストラヴィンスキーは《兵士の物語》に自分自身を投影したのですね。ちなみに、ストラヴィンスキーは死ぬまで特定の場所に定住しなかった人です。祖国に戻れなくなったあと、スイス、フランス、アメリカと転々とした。作風が“カメレオン”と称されている理由は、そういった背景にも関係しているのかもしれません。

「本物なんてどこにもない」という感覚を持っていたのでしょう。「本物」・「偽物」という感覚は、自分が根を下ろしている土地があるという人間が持つものです。しかし、故郷から追い出されたストラヴィンスキーにとっては、「これが本物だ」という感覚がない。全てがフェイク、ゴージャスだけど表層的で、内面的には何にもないという感じじゃないかな。

―――晩年のストラヴィンスキーはソ連に一度戻っています。

あれは文化政策の一環ですね。スターリンの独裁体制が崩れ、アメリカ人ピアニストのヴァン・クライバーンがチャイコフスキー国際コンクールで優勝、グレン・グールドが北米のピアニストとして初めてソ連に招待され、ストラヴィンスキーはお里帰りするなど、ロシアの雪解けの一環として帰ったのです。
しかし、本人は故郷に戻ったなんて感覚はなかったでしょう。ストラヴィンスキーはロシアが嫌いだった。彼の有名な言葉で、「ロシアには規律のない自由か、自由のない規律しかない」というものがあるくらいだから、ロシアに対して「故郷」という感覚はなかったでしょうね。

―――なるほど。ストラヴィンスキーについてお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

<後編に続く>

▶【ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー】詳細はコチラ

https://www.kyotoconcerthall.org/powerofmusic2021/#lecture

▶【京都コンサートホール presents 兵士の物語】公演詳細はコチラ

https://www.kyotoconcerthall.org/powerofmusic2021/#soldat