【ストラヴィンスキー没後50年記念】音楽学者 岡田暁生インタビュー<後編>

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京都コンサートホール

京都コンサートホールでは、ストラヴィンスキーの没後50年に際し、彼が残した傑作のひとつである《兵士の物語》(10/16)を上演します。また、関連講座として「ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー」も開催します。
レクチャーに先がけ、講師をしていただく京都大学人文学研究所教授の音楽学者 岡田暁生氏にインタビューを実施しました。後編では、《兵士の物語》の内容について興味深いお話を伺いました。
ぜひ最後までご覧ください!(聞き手:高野 裕子 京都コンサートホール プロデューサー)

▶前編はコチラ
https://www.kyotoconcerthall.org/blog/archives/2078

―――それではいよいよ本題の、ストラヴィンスキー作曲《兵士の物語》について教えてください。

この作品は、ストラヴィンスキーの亡命時代、第一次世界大戦最末期に書かれた作品です。その前年にロシア革命が起きて、ストラヴィンスキーは故郷に帰れなくなってしまったのですが、そのことを作品に投影していると思います。さらに言えば、スペイン風邪が猛威を振るい始めたのもちょうどこの頃。つまり、現在と状況が全く同じです。今年、京都コンサートホールが《兵士の物語》を選んだのは深い理由があると思います。マーラーなどの大きな編成で演奏される作品だったら厳しいけれど、《兵士の物語》だったら奏者間の距離も十分に取ることができるから大丈夫。あと、編成が小さいので経済的にも助かる。だから、この作品はいまにふさわしいんですよね。

―――なぜストラヴィンスキーは当時、この編成(ヴァイオリン・コントラバス・クラリネット・ファゴット・トランペット・トロンボーン・打楽器)で作品を書いたのでしょうか。

この時代、当時の作曲家にとって一番お金になったのは、まずはオペラ、次に交響曲。ですが戦禍にあった当時、新作なんてとんでもないという話だったし、オーケストラの楽員もみんな兵隊に駆り出された。そこにスペイン風邪が猛威をふるいはじめるわけでしょう?音楽家やオーケストラを集めるのにも一苦労したし、大体、誰がお金を出すのだという時代だった。コンサートホール、オペラ劇場が頼っていた、ゴージャスなブルジョワ階級をあてにできなくなった時、お金に困っていたストラヴィンスキーはスイス人のパトロンだったヴェルナー・ラインハルトの援助を受けて《兵士の物語》を作曲しました。オペラ劇場みたいに大金が集まってくるわけではなかったため、このような小さな編成の作品になったのです。

――さきほど、ストラヴィンスキーはこの作品に自身を投影したとおっしゃいましたね。

これは戦時休暇の話で、兵士は休暇をもらって故郷へ帰っていきます。当時の従軍兵士にとって何より辛かったのは、戦時休暇だったようです。なぜかというと、第一次世界大戦はまだ空爆などが盛んではなかった頃だったので、故郷に帰ると戦前と変わらない生活が待っていたんです。だけど、一方で自分たちは、戦場で異様な体験を重ねている。戦場と故郷とのギャップが耐え難いものだったのです。《兵士の物語》には、どこかで聴いたことがあるようなコラールやマーチなどが登場します。教会に入ればコラールが歌われているし、街の祭りではマーチが鳴り響き、ワルツが演奏されている。すべて日常生活の中で鳴っている音楽なんだけれど、なんだか変――これぞ、シュールレアリスムですね。コロナが起こってからのコンサート風景にも同様のことが言えます。コンサートに行くとコロナ以前と同じ風景が展開されているが、何かが違うという感覚です。

―――この作品のなかでストラヴィンスキーは「“幸せ”とは何か?」と問いかけています。

作品の途中、兵士が王女様と出会うシーンがあり、そこで非常に美しい「コラール」が流れるのですが、それが唯一の“幸せ”でしょうね。あの音楽だけが異様に美しいのです。ご存知の通り、ストラヴィンスキーはオーケストレーションの名手だったリムスキー=コルサコフの弟子でしたから、美しくゴージャスなサウンドを書くという点では師匠並みで、音楽史上最もオーケストレーションが巧みだった人物の一人です。しかし、《兵士の物語》の中で、感覚的に「あぁ美しい」と感じるのは唯一、あの一瞬だけ。それも幻覚なので、いずれ消えてしまうのですよ。

―――兵士と王女様が結婚し、幸せになって、はいお終い・・・と思いきや、最後の最後で悪魔が再登場し、2人の仲を引き裂きます。なぜあのシーンで、兵士は悪魔に抵抗しなかったのでしょうか。

それは演奏家の解釈によるでしょうね。でも、ストラヴィンスキーは非常にニヒルでクール、感情移入ゼロの人で、特に音楽に感情移入するのが大嫌いだったようです。ストラヴィンスキーは、リズムの解放を行い、音楽の終わりを見極めた人物だったとお話しましたが、それらを言い換えると「ロマン派と決定的に縁を切った最初の人だった」ということです。ロマン派的感性やロマン派的な音楽観というものを徹底的に排除し、「音楽=感動するもの」という、それまでの公式を決定的に否定したのです。これはとても大きいですね。

―――聴衆は「音楽」に「感動」を求めるのが常だと思うのですが。

《兵士の物語》を普通に聴いたら、訳が分からないと思いますね。
私は中学2年生の時、ストラヴィンスキーの三大バレエにはまりました。毎日、春の祭典からペトルーシュカまで、一通り聴かなければ何も他のことができなくなるくらい。そしてクラシック音楽好きだった父親に、ストラヴィンスキーの他の作品を尋ねた際、《兵士の物語》や《プルチネッラ》を薦めてくれました。当時、レコードは高価なものだったので、父親に買ってもらってそれらの作品を聴きました。でも、何にも分からなかった。訳が分からなかったのです。いまはその意味がよく分かるのですが、三大バレエは音楽の中に思い入れができる、感情移入ができる作品です。でも、この《兵士の物語》はそうさせてくれない。感情移入しそうになるところで、ストラヴィンスキーは全て外しにかかるのです。だから、感動しないからといって心配する必要はありません。

―――なぜストラヴィンスキーが「綺麗」でもなく「楽しい」わけでもない音楽を書いたか、その点を考えながら鑑賞すると聞こえ方も変わってくるかもしれませんね。

第一次世界大戦が始まる前のヨーロッパ、特にブルジョワ階級の人たちは、ゴージャスなロマン派の音楽に感情移入していました。しかし、第一次世界大戦により、そういうものを成立させていた世界がズタズタになったわけですよね。私たちもそう、コロナの出現により、それまで成立していた世界がズタズタになりました。そういった意味では、いまこそ《兵士の物語》に共感できるのではないかと思います。
現在、多くの人々の中で、「ホール=楽しそう」というイメージがびっくりするくらいイコールになっているように感じますが、私は音楽って「楽しい」ばかりではないと考えています。「音楽=感動=楽しい」というのがステレオタイプのようになり過ぎている気がします。

―――《兵士の物語》をプログラミングしたのは去年、コロナのパンデミックの最中でした。先行きがなかなか見通せない中で行き詰まった時、ちょうど100年前に起きたスペイン風邪のパンデミック下に書かれた作品に注目してみたのです。これらの作品をいま演奏することで、我々はこれから先をどう考えるのかというヒントになるかなと思いました。つまり、先人が残した作品を通して、アフターコロナをシミュレーションしてみたかったのです。しかし、それから半年ほど経ち、自分の意識も変わり始めました。この先、どうなるのだろう?何があるのだろう?と。アフターコロナの世界について、先生はどう考えていらっしゃいますか?

私はあの本(「音楽の危機――《第九》が歌えなくなった日」)を出すにあたって、この先どうなるかについて、具体的に細かくシミュレーションしました。例えば人気アイドルグループのような何万人も収容する公演はどうか、あるいは宝塚のような1,000人~1,500人規模だが熱狂的なファンがいる公演はどうか、またクラシックのようにコアなファンが意外とあまりいない社交的感覚を持つ公演はどうか、もしくはライブハウスでの公演はどうか。はたまた、コロナがあっという間に収束したらどうなるだろうか、とかね。
とある教え子に「ワクチン接種が早急に進むと、ベルリン・フィルやウィーン・フィルが次々と来日する世界は戻ってくるだろうか?」と聞いたら、「そういう世界は意外と早く戻ると思います。少なくとも東京はすぐに戻ってくるでしょう。ただ、このダメージは多方面において相当なものだと思います。その影響は、10年後15年後に初めてはっきりと目に見えてくるもので、そうなった時に“この現象はいつから始まったのだろう”と記憶をたどると、“ああ、あのコロナの時から始まっているのだ”と気がつくものではないでしょうか。」と言われました。これには「あぁなるほど」と思いましたね。

―――いま我々もコロナの影響を受けています。コロナ前に見られたようなホールの賑わいを取り戻すことができません。

ホールに聴衆を取り戻そうとする時、安易な話題性に頼ってはいけないと思います。そもそも、コロナ前から日本のクラシック業界というのは、話題作りに頼り過ぎていたかもしれない。話題で粉飾してみても、話題だから行っているという人が大半で、そういう人たちってあっという間に別の話題にいってしまう。まあ、そういったことも必要でしょうけど、一度聴いても「二度目はいらない」という人々もいる。確率で言えば、もう一度聴きたいと思う人は1割くらいでしょう。やっぱり、音楽を聴きに来た人に「これはまた来よう」と思わせるようなコンテンツがないと、聴衆が一時的に戻ったとしてもその時だけの話題性で終わると思います。単なる話題作りでは、所詮メッキが剥げやすいでしょう。

―――そういったことが、今回のコロナであぶりだされてきたと思います。これからホールがどういう音楽を作っていくかということも見えてきているような気がします。そして、お客様がそれをどう感じ、その後もホールに継続して来てくださるか。お客さんの審美眼を養うのも、我々ホールの役割のひとつだと思います。

今日は貴重なお話をいただき、ありがとうございました。

(2021年7月  京都コンサートホール  カフェ・コンチェルトにて)

 

▶【ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー】詳細はコチラ

https://www.kyotoconcerthall.org/powerofmusic2021/#lecture

▶【京都コンサートホール presents 兵士の物語】公演詳細はコチラ

https://www.kyotoconcerthall.org/powerofmusic2021/#soldat

 

【ストラヴィンスキー没後50年記念】音楽学者 岡田暁生インタビュー<前編>

投稿日:
京都コンサートホール

京都コンサートホールでは、ストラヴィンスキーの没後50年に際し、彼が残した傑作のひとつである《兵士の物語》(10/16)を上演します。また、関連講座として「ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー」も開催します。
レクチャーに先がけ、講師をしていただく京都大学人文学研究所教授の音楽学者 岡田暁生氏にインタビューを実施しました。
ぜひ最後までご覧ください!(聞き手:高野 裕子 京都コンサートホール プロデューサー)

―――この度は、インタビューの機会をいただき、ありがとうございます。まずは、今年没後50年を迎える「ストラヴィンスキー」という作曲家について教えていただけますか。

ストラヴィンスキーは、美術の分野で言えばピカソに匹敵する人だと思っています。音楽史において20世紀を決定的に開いた人ですね。一般的に、ストラヴィンスキーあるいはシェーンベルクのふたりが20世紀音楽の扉を開いたと言われていますが、私の目から見ると、シェーンベルクははるかに19世紀、ロマン派寄りです。
間違いなく、ストラヴィンスキーは20世紀最大の作曲家ですね。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)

―――「20世紀最大の作曲家」と考えられる所以を教えてください。

ストラヴィンスキーは、音楽の「スタンダード」を変えてしまった作曲家です。
まず、ストラヴィンスキーは、19世紀において三流ジャンルであったバレエをモダン・ダンスにしました。それまでのクラシック・バレエと決定的に縁を切った20世紀的モダン・ダンスは、ストラヴィンスキーの精神から生まれています。彼は「リズムの解放」を行いました。それまでの西洋音楽は「音の高さ」を重要とする音楽であり続けてきましたから、「リズム」の要素は弱いものでした。それに対して20世紀の音楽というのは、クラシックに限らず、ジャズやロックも含めて、「音の高さ」の音楽ではなくなり、リズムの精神が求められました。つまり、20世紀はリズムが解放された世紀。ストラヴィンスキーはその先駆者だったのです。
さらに、ストラヴィンスキーは「新古典主義」という点でも先鞭をつけた人物でありました。彼は三大バレエ(火の鳥[1910]・ペトルーシュカ[1911]・春の祭典[1913])で新しい世界を決定的に開いたのですが、第一次大戦後、古典派時代への回帰を見せたいわゆる「新古典主義」へと作風をスライドしました。それはなぜか?ストラヴィンスキーは「音楽の歴史はもう終わった」と感じていたからです。つまり、「ポストモダン」の発想を持っていたということなのです。1920年代の段階で、ストラヴィンスキーはポストモダンの感性を先取りしていた。ストラヴィンスキーは過去の色々な作品をカタログのように使ってコラージュ的なことを行い、なんとか新しいことができないかと試みていますが、これは「音楽語法の発展はもう余地がない」という、ある意味では現代的ニヒリズムをはるか遠く先取りしていたとも言えます。
「リズムの解放」と「ポストモダン的感性」。ストラヴィンスキーは音楽の歴史の発展というものを、根本的に否定した人物なのです。

アルノルト・シェーンベルク(1874-1951)

―――初期のストラヴィンスキーは、シェーンベルクが考案した十二音技法を避けていましたが、晩年になって取り入れるようになりました。なぜでしょうか?

「新古典主義」の一種ですね。色々なスタイルが掲載されているカタログを使って、パッチワークやコラージュのようなことをやったのです。材料さえあればなんでも良い。ストラヴィンスキーにとっては、シェーンベルクだって材料のひとつ。ちょっと乱暴な言い方をすれば、“ギャグる”材料のひとつ。つまり、非常に高度なパロディです。当時ストラヴィンスキーは、もう「パロディとしてしか芸術は存在しえない」、「音楽の発展はもう終わっている」と思っていたのです。

―――ストラヴィンスキーは、音楽の未来を見抜いていたということですね。

そう、見抜いていた。こうなったら、今までみんなが知っている、過去の色んなスタイルのパッチワークをやるしかないと思ったのです。現代の音楽家たちも同じようなことをやっていますが、発想自体は何も新しいことはない。だって、20世紀初頭にはストラヴィンスキーがすでにやっていたのですから。

―――ストラヴィンスキーの同時代人で、同じような手法を試みた作曲家はいますか?

たくさんいましたが、ストラヴィンスキーのようなラディカルさはなかった。「歴史はこれ以上、先に進まない」という、ある種の絶望感がその背景にあったかどうか、です。

―――ストラヴィンスキーのそういったキャラクターは、当時の時代背景と大きく結びついていますよね。

そう、絶対に忘れてはいけないのは、彼が亡命者であったということ、つまり生まれ育った国から切り離されていたということですね。今回、京都コンサートホールが上演する《兵士の物語》にも通じる話ですが。
シェーンベルクの場合、ウィーンもしくはウィーン古典派に深く根を下ろしているという意識があったので、先祖から受け継いだものをさらに発展させなければならないという義務感がありました。
しかし一方、ストラヴィンスキーの場合は、故郷から放逐されてしまって「どこにも所属していない人」です。《兵士の物語》を創作した1917年にロシア革命が起き、印税を得ることができた三大バレエのスコアはすべて新しいソ連政府に没収されたので、経済的にも非常に困窮していました。《兵士の物語》のストーリーである「戦時休暇で里に帰るけど、里はどこにもない」という内容は、実はストラヴィンスキー自身の話なのです。どこにも帰る場所がない。

―――なるほど、ストラヴィンスキーは《兵士の物語》に自分自身を投影したのですね。ちなみに、ストラヴィンスキーは死ぬまで特定の場所に定住しなかった人です。祖国に戻れなくなったあと、スイス、フランス、アメリカと転々とした。作風が“カメレオン”と称されている理由は、そういった背景にも関係しているのかもしれません。

「本物なんてどこにもない」という感覚を持っていたのでしょう。「本物」・「偽物」という感覚は、自分が根を下ろしている土地があるという人間が持つものです。しかし、故郷から追い出されたストラヴィンスキーにとっては、「これが本物だ」という感覚がない。全てがフェイク、ゴージャスだけど表層的で、内面的には何にもないという感じじゃないかな。

―――晩年のストラヴィンスキーはソ連に一度戻っています。

あれは文化政策の一環ですね。スターリンの独裁体制が崩れ、アメリカ人ピアニストのヴァン・クライバーンがチャイコフスキー国際コンクールで優勝、グレン・グールドが北米のピアニストとして初めてソ連に招待され、ストラヴィンスキーはお里帰りするなど、ロシアの雪解けの一環として帰ったのです。
しかし、本人は故郷に戻ったなんて感覚はなかったでしょう。ストラヴィンスキーはロシアが嫌いだった。彼の有名な言葉で、「ロシアには規律のない自由か、自由のない規律しかない」というものがあるくらいだから、ロシアに対して「故郷」という感覚はなかったでしょうね。

―――なるほど。ストラヴィンスキーについてお話をお聞かせいただき、ありがとうございました。

<後編に続く>

▶【ストラヴィンスキー没後50年記念レクチャー】詳細はコチラ

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▶【京都コンサートホール presents 兵士の物語】公演詳細はコチラ

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